【感想】言語が違えば、世界も違って見えるわけ/ガイ・ドイッチャー

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

私が見ている世界は、他の人が見ている世界と違うのではないか?

人が世界を認識してそれを表現する手法の一つである言語は、人の認知を映し出す鏡のようなもの。

タイトルの通り、「言語が違えば世界も違って見える」なんて本当?

先に言ってしまうと、タイトルからイメージするよりこの本の結論は控えめです。

大胆な論説を期待しているとなーんだって思うかもしれないけど、言語が人の思考に与える影響は間違いなくあって、解明されない部分も多いからこそロマンを感じます。

言語学の研究の歴史を知る本としても面白くて、過去のトンデモ仮説に「そんなわけあるか!」とツッコんだり、ちょっと引いてしまうようなかつての研究の様子を知れたり、言語と思考にまつわる研究の何やかんやな変遷を追体験できます。言語学の知識ゼロな人間でも楽しめました。

第Ⅰ部 言語は鏡

「言語は文化によって生まれるのか、人間を取り巻く自然や遺伝的な要素から生まれるのか」

第Ⅰ部で語られるのは、色名に関する探求の歴史。言語によって、時代によって、色名とそれが指す色の範囲はさまざまに異なるみたい。

日本がかつて、緑と青をまとめて「アオ」と呼んでいたように、世界の言語には驚くべき色の括り方をするものがある。(青も緑も灰色も一緒くたにして「黒」と呼んだり、ピンクや黄色やオレンジをまとめて「赤」と呼んだり)その言語の使い手たちが、私たちと違うように色を認識しているなんてことはなくて、同じように色は区別できるのに、彼らはそれを区別する必要性を感じていない。(特に今まで区別する必要がなかったから同じ色名で括っていただけだし……という話)

となれば、言語による色の区別の差異は、どれだけ色の区別を必要とするかっていう文化的な慣習によって生まれているということか!と思いきや、話はそう単純ではないようで、色の区別には遺伝子に刻み込まれているとしか思えない自然の影響も見られるらしい、、、(詳しくは本文で)

人は本来、青空を認識できない?

第Ⅰ部の中で「へー」と思ったことなんですが、驚いたことに、澄み渡った空を見て「きれいな青空だ!」と私たちが思うのは、実は人間の認知機能的に簡単なことではないらしいのです。

この本には、色彩研究に関する議論の発端として、古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスの詩がよく登場します。ホメロスは、ギリシャ文学の基礎とまで呼ばれる重要な叙事詩を書き上げた詩人。彼の詩は直感的で丁寧な描写を通して、読む者に豊かな景色を思い浮かばせる(らしい)。にも関わらず、その詩の中には、「青い空」という描写が一度もないそう。晴れの日にはいつでも眼前にある真っ青な空に一度も触れないなんて、空が青いことを認識できていなかったんじゃない?ということみたい。

加えて、著者が4歳の自分の娘で実験したところによると、彼女は「青」という色は認識できているのに、晴れた日の空の色をすぐに答えることはできなかったらしい。まず、空に色があることが理解できなくて、理解してもその色を「青」と答えるようになるまでに半年もかかったそうな。子供の言葉に関する学習能力の高さを考えると、この期間は異常ということです。(我が子を被験者にするために、幼いころから色の訓練をさせてわざと空の色を教えないようにする著者もなかなか)

「空」という空間と、空の色は「青」という認識は、人間が遺伝的に獲得しているものじゃなくて、親が子に教えるように文化的に継承されてきたものみたいですね。

第Ⅱ部 言語はレンズ

言語は人間の知覚を限定する?

第Ⅱ部で結構なページ数を割かれているのがエドワード・サピアの話。サピアとその弟子のウォーフが展開した仮説は、「母語によって世界を知覚できる範囲が変わる」というもの。当時、その説を熱狂的に支持していたのは、一般人だけじゃなくて言語学者もしかり。

でも冷静に考えれば、言語によって人間の知覚が限定されるなんてあるわけない。(あまり好きな言葉じゃないけど)「おもてなし」が、東京オリンピックを契機に概念も一緒に広がったように、母語の中に対応する言葉がなくても、同じ人間が編み出した概念を理解できないはずがないって、少し反例を考えてみたらわかるはずなのに。

サピアとウォーフが研究を進めた1900年前半は、まだ遺伝や脳の構造に対して明らかでない部分や、人種間の偏見みたいなバイアスも根強かったと思う。でもそんなトンデモ仮説を多くの人が支持したのは、多分、その説があまりにもダイナミックで、壮大なカタルシスがあったからじゃないかと思います。使う言語によって認識できる世界の範囲を左右されるだなんて、そんなコペルニクス的転回な説に抗い難い魅力を感じてしまうのは何となくわかりますもん。

言語が話し手になんらかの影響を与えることは「ある」

一世を風靡したサピアの仮説が、まるで立証できない空論であることがわかってから、言語学は地に足をつけて言語と思考の関係を研究します。その代表例が、「右・左」の概念を持たず「東西南北」であらゆる方向を表現するグーグ・イミディル語であり、無機物に男性名詞・女性名詞の区別を与えるスペイン語などのヨーロッパ言語。(グーグ・イミディル語の絶対座標に関する話はとても面白いので一読の価値あり。例えば、彼らは「鼻を南に向けて泣く」と言うんだって)

他にも、ヨーロッパ語圏で見られる女性名詞・男性名詞のジェンダーを持つ言語も、話者の思考に影響を与えていることが分かっている。無機物に(ランダムと言ってもいいほどいい加減に)付けられたジェンダーから、話者は無意識のうちに、無機物に対して女性・男性のイメージを想起するらしい。日本人には理解しがたいイメージだけど、無機物が持つ性別のイメージに促されて、詩的な表現が生まれやすいことは間違い無い。

これらの研究からわかってきたことは、どうやら言語は、話し手の思考の癖のようなものに影響を及ぼすであろうこと。そして、言語には特定の表現を強いる枠があって、話し手の思考の癖は、その枠の中で思考する習慣から生まれるものであること。(グーグ・イミディル語の話者が驚異的な方向感覚を持つのもその一例)

サピアとウォーフが唱えた強烈な仮説よりはだいぶ地味な結論だけど、その方が人類にとってはありがたいかもしれないと思います。母語が違う者同士でも、お互いを阻む壁は思考の癖程度のものでしかなくて、完全に互いの理解を阻む壁にはなり得ないということだから。

そんな風に、言語と思考にまつわる研究の歴史と、違う言語を話す人たちが見ている景色を垣間見ることができる、とっても好奇心そそられる一冊でした。

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